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第18回IPPNW世界会議(インド・デリー)参加報告

核戦争に反対する医師の会代表世話人 中川武夫


IPPNWは第18回世界大会を3月9日から3日間、インド・デリー市内のVP HOUSEで開いた。反核医師の会からは、医学生3人、事務局2人、通訳2人を含む21人の代表団が参加、私は保団連代表として参加した。会議には各国から延べ58カ国約600人が参加したと報告があった。

世界大会を準備したのはIDPD(Indian Doctors for Peace and Development,平和と発展のためのインド医師の会)である。会員数や活動内容については十分な情報は語られなかったが、初日の開会セッションでM Nara Singh副会長がIPPNWの支援のもとでの平和・健康・発展をめざす医師の運動の発展について報告した。

インドのHamid Ansari(ハミッド・アンサリ)副大統領が演説し、「インドは暴力のない世界、核兵器の災害のない世界を熱望している」と述べ、「会議のすべてが成功することを期待する」と結んだ。

また、世界大会事務局長のArun Mitra(アルン・ミトゥラ)・IDPD事務局長が

「ヘルシンキからデリーまで」と題して報告した。

 2日目の朝の全体会議では、「グローバル化と戦争:戦争の根本原因」とテーマで全体会議が始まった。なりふりかまわぬ自由主義経済の推進者たちは、軍需産業の要請のもとにイラクで戦争を起こし、もうけのためには勝つことしか考えず、「思いやり」という言葉に対しても攻撃する。そのような勢力が核兵器を必要とするのだと、IPPNWが闘うべき相手を明確にした。このあとの企画も、この立場に立ちながら展開されていく。

パネルディスカッション「エネルギー安全保障の選択肢」では、原子力エネルギーではなく水力発電、太陽光発電などの再生エネルギーに期待をかけよう、と呼びかけ、ドイツの代表者は、「多国籍企業は原子力にばかり期待して再生エネルギーには興味がない」とし、ウラン鉱山周辺住民の小児ガンや白血病などの健康被害のデータを示しながら「3分の2の国民が原発に反対している」と報告。原子炉の150件の事故およびウラン被害について裁判に訴えているとのこと。ネパールは「戦争の原因の一つは、エネルギー資源の問題」とし、ヒマラヤ山脈の豊富な水資源を利用した水力発電の可能性について触れ、これが環境と社会正義を守る「持続可能な」対策であるとしている。

現存する2万9千発もの核兵器が一部でも使用されると世界は「持続不可能」であり、持続可能な世界になるには核兵器の問題だけでなく環境の問題にも取り組む必要がある、またこのような活動自体が「持続可能」でないといけない、そんなメッセージが印象的であった。

昼の指定報告(Presentation)では、インド国内のJadugoda(ジャデゥゴラ)ウラン鉱山周辺の住民の健康状態(健康被害)について、詳しい報告が行われた。 パワーポイントで映し出される現地の生々しい状況に関心が集まった。

 午後の「科学戦・生物戦と地雷の影響」の分科会では、大阪の武田先生が「731部隊」について報告され、参加者の関心を集めた。

 夕方の分科会は、「ヒロシマ・ナガサキの遺産から北東アジア非核地帯構築へ」の分科会に参加した。広島の片岡先生、臼井先生、鎌田先生、柳田先生から報告があり、中国は核保有国の中で唯一先制不使用を宣言している国である、広島に今1Mtの原爆が落とされると、100万人が死ぬと予測され、対策は予防しかない、日本は1947年に憲法9条を定めたが、52年には自衛隊を持った、これは軍隊と同じである、71年には非核3原則を定めたが、法律でも憲法でもない、また、他国から見ればアメリカの核の傘の下に居ることは、核兵器を持っているのと同じに見える、などの報告があった。モンゴルの代表からは、パキスタンの核実験被害を調査中で、今年中にはまとまるだろう、モンゴルは1国非核地帯宣言をし、ロシア、中国と協定を結んだ、モンゴルの法律としても核兵器を持った軍隊の駐留を拒否することを明確にした、との発言があった。北朝鮮代表からは、停戦条約から平和条約の締結がまず第1歩で、その後に非核地帯が現実のものとなるとの発言があった。

 最終日の「こども、女性、紛争」の全体会議では、「世界では女性とこどもがハエのように殺されている」との報告や、インドにはビル・ゲイツを抜いた世界1の金持ちがいる一方、11億の人口の70%以上が1日0.5ドル以下で暮らしている、一方でインドが核兵器を持つことに膨大な費用をつぎ込んでいる、これが紛争でなくて何なのか、などの発言があった。

 ザンビアの医師からは、女性・子供が男とは違った状況で深刻な影響を受けている、軍による安全保障とは異なった人間としての安全の確立が必要との発言があった。

議員、政治指導者との対話のセッションには、Anbumani Ramadoss(アンブマニ・ラマドス)インド保健大臣が出席し、核兵器国の核兵器使用の危険だけでなく、テロリストやそれ以外の非国家主体(non-state-actors)の手に落ちる危険についても言及しました。初日の副大統領、3日目の保健大臣の出席は、日本では全く考えられない状況であり、今後の活動の中で、影響力を行使することも視野に入れる必要性を感じた。

カナダのダグラス・ロシエ上院議員は、世界の全人口を51回も全滅させることが可能な核兵器所有国は、その権利を保有しながら他の国には不拡散を押し付けている、しかもまだ狂気の者もいる、兵器があれば使われる、人類は核兵器とは共存できないことを常に確認する必要がある、と訴えた。

インドは非暴力を貫いて独立を勝ち取ったガンジーの国、その伝統を受け継ぐべきであり、インドが核兵器を持つことで返って核攻撃の危険が増しただけだとの発言もあった。

南アジアではじめての大会は成功裏に進められており、IPPNWの歴史は医学生に引き継がれねばならない、との発言もあった。

 最後に、会議は第19回世界大会を2010年8月25日から30日まで、スイス・バーゼル市で行うことが報告され、NPTの問題、低線量被曝の問題にも取り組むこと、核兵器の破壊のための集会にしたいと訴えられた。

今年の代表団の構成の再大の特徴は、平均年齢が大きく下がったことである。よく参加して頂いていた長老が今回都合が悪く参加されなかったことと、今回初めて学生さんが3名、研修医が3名参加したことで平均年齢が下がったのである。また、今まではJPPNWから参加されていた大阪の武田先生、京都の三宅先生がPANWから参加されたことも今までとは違った点であった。これからも、医学生、研修医を含む若い世代の参加を組織することを重点に置くことを追求すべきであると思った。

また、関西空港からエアーインデイアで出発した通訳2人を含む14人が、機体の不調とのことで香港で約30時間も足止めされ、成田組と合同の結団式が9日の夜遅くになり、会議へは2日目からの参加になってしまったのも、前代未聞の出来事であった。

 参加者の中で、ネパールの学生がそろいのTシャツ姿で目に付いた。考えてみれば、ネパールはインドの隣国で、デリーからそれほど遠くない国でもあった。

 会場での展示は、2つのブースが提供され、被爆者のパネルと、生物・科学兵器についての展示を行った。他の国とともに、われわれの展示が表彰の対象に選ばれたとの話もあったが、最終日は飛行機の関係もあり最後までは会場に居られなかったので、どうなったのかは定かではない。ブースに関しては、「9条世界会議英語版リーフ」200部、「九条の会シール」200枚、「LOVE&PEACEバッジ」200ヶ、折り紙でおった折鶴80羽、「戦争と医学展・英語版」パネル1冊、「戦争と医学展・英語版」パンフ20冊がかなりのペースでなくなり、参加者の鞄やTシャツのあちこちに「九条の会シール」が氾濫していた。

 事前に、「平和市長会」をノーベル平和賞に推薦する、との情報も流れたが、大会事務局からの情報提供がなく、これもどうなったか現時点では不明である。会議も、プログラムの時間が突然変更になったり、最初の登録に時間がかかったり、情報提供が不十分であったりと、ITの先進国のはずなのにと思ったのは私だけではないと思う。

 大会決議も、帰国後「インターネットで公表されている」とのメールがあって初めて知った。大会決議は「なかでも最重要の課題は、戦禍を終わらせることである。現在も核が存在するこの世界に働きかけ、考えられる最悪の形態の戦争、核戦争を、防止するのは、医師として、そして社会的責任のある人間として、われわれの最も緊急で最優先の目標である。ガンジーの祖国において、われわれはその目標に向けて専心することを誓う。」との文章で締めくくられている。

 2日目に希望者によるデリー市内のミニ観光を行ったが、観光地には物売りや未だ幼い子供が「側転」などをした後、手を出してお金をせびることや、地下歩道で身体に障害のある子供が裸足でいざりながらお金を求めるという現実にも出会った。60年位前の日本を思い出した。また、世界1の金持ちの存在と、この現実について改めて考えさせられた。

 フマユーン寺院の内部の宗教壁画に「Love and Peace」と書かれていた(落書きではありません)のも心に残ったことの1つでした。

 出発前に、山上非核・平和担当副会長から「狂犬病に罹患する危険性があるので、例え飼い犬でも、頭をなぜたりして噛み付かれない様に」との注意を頂いた。街中には、野犬の姿もあったが今回は触れ合う時間もなく、噛まれた人は居なかった。デリー市内では、野生のサル、リス、孔雀も見かけた。そういえばインドの国鳥は孔雀でした。

 成田便の日本人客室乗務員からは、歯磨きをした後の口のすすぎも、最後はペットボトルの水でするように私たちは気をつけている、日本人は慣れていないので、と忠告をうけたが、結局そこまでのことはしなかった。日本から持参した2リットルの水のペットボトルは、ホテルに放棄することとなった。

 昼食と夕食は、主催者により提供されたが、屋外のテントの中で、生野菜にはハエなどもたかって居り、絶えず落ち葉が舞い降りほこりっぽい環境で、決して衛生状態が良いとは思われなかった。そんなこともあり、体調を崩された先生も居られたようである。

 デリーは新デリーと旧デリーの総称で、イギリスが作った都市らしく、公園が随所にある緑豊な街である。しかし、3月はまだ乾季で全体にほこりっぽく、街の緑も鮮やかな緑、という感じには見えなかった。役11億の人口、高い経済成長をしているインド、10年後にはどのように変わっているのであろうか。

 最後に、現地ガイドから聞いた日本人向け小話を1つ。

ご承知のように、インドでは「おはよう」も「こんにちは」も「こんばんは」も「ナマステー」といいます。しかし、英語でもドイツ語でも日本語でも、ほとんどが使い分けている。インドでも最近はそうした影響をうけて、少し変わってきている。どう変わったかというと、「こんばんは」に相当する夜の挨拶は、「ナマステー」ではなくて「ノマセテー」と言うようになってきていると。